赤線・青線を経て大流行したトルコ風呂とは?
前回は、ソープランド街の基盤形成のもととなった遊郭の歴史について、詳しく説明させて頂きました。
遊郭の歴史については、「ソープランドの歴史!遊郭の歴史を解説」をご参考ください。
今回は、ソープランドの前身である「トルコ風呂」を中心に、戦後の「赤線・青線」の時代から説明させて頂きます。
トルコ風呂とは?
トルコ風呂とは、1951年~1984年まで存在し、現在のソープランドの原型となった、かつての個室付特殊浴場です。
トルコ風呂とは、もともと女性垢すり師が男性の入浴客に対して垢すりサービスを行う場所でしたが、顧客獲得のためにサービスが徐々に過激化していき、最終的に性的サービスまで提供するようになったのです。
このトルコ風呂は1984年に名称を変えてソープランドになりました。か
つ、ソープランド特有のプレイであるマットプレイは、トルコ風呂時代にとあるトルコ風呂店の女性従業員が考案したと言われています。
ですから、トルコ風呂がソープランドの直接的な起源であることは間違いないのです。
ですが、現在のソープランドエリアの多くにかつて遊郭があったことを考えれば、ソープランドの前身であるトルコ風呂について詳細な説明をしようとした時、必然的に遊郭の説明も必要となってくるでしょう。
トルコ風呂前と後の歴史
トルコ風呂の歴史(ソープランドの歴史)を詳細に語るには、大きく分けて
① 遊郭(主に江戸時代~1950年代まで)
② 赤線、青線(戦後~1950年代まで)
③ トルコ風呂(1950年代~1980年代まで)
④ ソープランド(1984年~現在)
となると考えられます。
「① 遊郭(主に江戸時代~1950年代まで)」については、【ソープランドの歴史①】各地のソープ街の基盤を作った「遊郭」の歴史 にて詳しく説明させて頂いておりますので、ぜひともご参考ください。
そして、本記事では、「② 赤線、青線(戦後~1950年代まで)」・「③ トルコ風呂(1950年代~1980年代まで)」・「④ ソープランド(1984年~現在)」について詳しく説明していこうと思います。
トルコ風呂誕生前の状況:赤線・青線
戦前まで、日本では長らく公娼制度が続きました。
公娼制度とは、国や自治体がルールを決めて、特定の売春行為を容認する制度です。
つまり、売春をしていいよと国や都市が認めていたんですね。
(もちろん、現在の日本では売春に関わる行為は、売春防止法によって禁止されています。誤解のないように!)
公娼制度の目的は様々ありますが、主に
・私娼(私的に売春行為を行う女性)を増やさないため
・国や自治体が性風俗業を管理、監督して、風紀を乱さないようにするため
・国が売春業者(売春婦)から税金を徴収するため
などの目的がありました。
公娼制度の最たる例は遊郭です。遊郭とは、売春を斡旋する業者や小屋(遊女小屋)や遊女が一斉に集まった特定のエリアのことです。
遊郭のエリアは、国や都市が定めた一定の区画になります。
しかしながら、戦後になって、GHQが公娼制度の廃止を指示したため、遊郭は衰退し、結果的に街には私娼が溢れることとなりました。
結果的に、街では売春が行われる赤線・青線と言われるエリアが出来上がることとなりました。
赤線とは?
赤線とは、特殊飲食店として売春行為を容認、または黙認していたエリアを指します。
特殊飲食店とは売春婦が置かれた店のことです。
(売春婦は、女給の恰好をして、表向きは飲食店の従業員として働いていたそう。)
アメリカ兵など連合国軍兵士らによる、一般女性への性犯罪抑制を主たる目的として、警察は特殊飲食店での売春を公認していたのです。
東京の特殊飲食店は表向き「カフェ」、大阪の特殊飲食店は表向き「料亭」を装うことが多かったようです。
東京の特殊飲食店はカフェを装うために、1階にダンスホールやカウンターが設置され、2階の女性従業員の部屋にて売春行為が行われていたそうです。
かつて赤線地帯だった都内エリアは、吉原・新宿二丁目・北千住・品川・洲崎・新小岩・小岩などがあります。
以前、遊郭があった場所の多くが赤線として機能していました。
青線とは?
青線とは、特殊飲食店の営業許可がなく、一般の飲食店の営業許可のままで売春行為が行われていた、非合法の特殊飲食店エリアです。
かつて青線地帯だった都内エリアは、三鷹・吉祥寺・西荻窪・阿佐ヶ谷・中野などがあります。
都内以外の青線地帯としては、北海道札幌市すすき(一部エリア)・富山市のかつて遊郭があったエリア・大阪飛田新地・神奈川熱海、などが挙げられます。
青線での売春は、赤線と違って違法であるために、ホステスとの即席恋愛として解釈がなされていたようです。(現在のソープランドと解釈が同じ!)
また青線は違法ということもあり、女性とのセックスの金額は赤線よりも安かったそう。
さらに青線であっても、お店は食品衛生法に基づいて飲食店としての許可を取っていたらしく、飲食店としてはしっかりしていたとのことです。
売春防止法:1957年施行
1956年に売春防止法が制定されると、赤線エリアの特殊飲食店は一斉に廃業することになります。
しかし、売春防止法の施行によって当時の日本はかなり混乱したようで、いろいろと紆余曲折がありました。
その当時までの日本は、どういう形であれ、数百年にわたって売春を国が認める文化が根付いていたわけですから、日本全体が混乱するのも無理はありません。
売春防止法の成立を阻止するために、赤線地帯の特殊飲食店の業者が政治家に賄賂を渡すという汚職事件が起こりました。
そして、売春業から解放されることで喜ぶ女性もいれば、売春ができなくなって今後生活に不安を感じて途方に暮れる女性もいました。
そんな中、売春防止法制定の数年前より、巷ではにわかにトルコ風呂という、個室付特殊浴場が話題になりつつあったのです。
トルコ風呂の歴史
トルコ風呂第一号店の開業:1951年
トルコ風呂は、本来、女性による垢すりを男性客にサービスとして提供するものでした。
日本でのトルコ風呂第一号店は、1951年に東京の銀座にオープンした東京温泉でありました。
東京温泉はは、上海のトルコ風呂(スチームサウナ)に感銘を受けたスチームサウナの日本人創始者が開業しました。
東京温泉はサウナがメインの施設で、ミストルコと呼ばれる女性が男性客に対してマッサージを行う、という営業内容でした。
もちろん、一般的なサウナ施設としての東京温泉では、女性従業員は着衣必須で、性的なサービスが厳禁とされていました。
以降、東京温泉の成功を受けて、多くのトルコ風呂店が乱立するようになり、やがて顧客獲得のために過激なサービス、つまりは性的サービスを男性客に提供する店舗が増え始めたのであります。
トルコ風呂は、個室の中で裸の男性の肌に女性が触れてマッサージを行うものですから、性的サービスと容易に結びつきやすかったのですね。
サウナ施設としてのトルコ風呂の基本サービス
初期のトルコ風呂では、男性客が裸になった後、
[男性がスチームバスに入る→女性従業員が男性の体を洗う→女性従業員が男性の髭を剃って、シャンプーで頭を洗う→男性はベッドに横になってマッサージを受ける]という流れでした。
つまり、初期のトルコ風呂は、いたって健全なサービスであり、女性従業員はそれなりに熟練した技術を求められたわけですね。
「性的サービス」を提供し始めた頃のトルコ風呂のプレイ内容
1953年になると、トルコ風呂は都内20店、全国70店に拡大していきます。
トルコ風呂では、潤滑油としての役目があるクリームを塗った手を使って男性器をマッサージするスペシャルサービスというサービスが好評を博するようになりました。
また、女性従業員が男性客の体を舐めまくるという、マナーベッドなるサービスもありました。スペシャルサービスやマナーベッドのように、トルコ風呂では、警察の摘発から逃れるために、日々新サービスが登場していたようです。
新手の性的サービスが登場して、その後、警察がその性的サービスを摘発対象に加えることで、トルコ風呂店はまた新しい性的サービスを開発して…というように、トルコ風呂店と警察は常にいたちごっこ状態にありました。
とは言え、まだまだこの時点ではトルコ風呂のサービスは本番なしのライトな内容にとどまっていました。
そして、トルコ風呂のサービスが本番ありの内容へと変わっていくきっかけとなる出来事が起きました。
それが1958年に施行された売春防止法であります。
トルコ風呂サービスの過激化
1958年に売春防止法が施行されると、先にも説明した通り、赤線地帯の特殊飲食店で働いていた売春婦たちが、トルコ風呂で多く流れてきました。
トルコ風呂が、赤線で体を売っていた売春婦たちの受け皿になったんですね。
売春にて本番行為を行っていた女性たちが、トルコ風呂の従業員として働き出すと、当然の結果的として、トルコ風呂のサービスはさらに過激化し、本番をすることが当たり前となっていったのです。
トルコ風呂と売春婦の関係性
トルコ風呂を詳しく説明する上で欠かせないのは、日本における売春の歴史です。
なぜならば、1958年に施行された売春防止法(売春を助長するような行為を罰する法律、または、売春行為を行う女性たちの保護・更正を目的とする法律)」以降、トルコ風呂は多くの売春婦たちの受け皿となったことは事実だからです。
戦後、貧困にあえぐ多くの女性は、自分の体を売ってお金を稼ぐ必要がありました。
しかしながら、売春防止法によって女性たちは自由に売春業を行うことができなくなり、結果的に、法律が許す範囲の中で(とは言え、トルコ風呂もソープランドも法律的に言えばグレーの境界線にありますが)、トルコ風呂店にて元売春婦たちの多くが再び性産業に従事することになったのです。
日本の性風俗の歴史を語るには、どうしても日本における売春の歴史に目を向けなければなりません。
というのも、売春によって風紀が乱れることを防止するために、かつ、売春婦の女性たちを保護するために、日本では法律が整備され、日本の性風俗文化が確立されていったからです。
つまり、売春と性風俗は切っても切れない関係にある、ってわけですね。
トルコ風呂の規制
やがてトルコ風呂では男女が本番行為をすることが当たり前となっていきました。
同時に、トルコ風呂はただ男女がセックスするだけの場所と化してしまい、当初のトルコ風呂としての本質や機能は次第に薄れていきました。
セックスがメインとなってしまったトルコ風呂では、当初あった職人感溢れる垢すりやマッサージは意味を持たないものになりました。
かつ、警察とのいたちごっこによって次々と生まれていた新しい性的サービスは、本番行為が最終的に行き着いたサービスとなり、それ以上の創意工夫溢れる新サービスはなかなか生まれませんでした。
つまり、トルコ風呂がトルコ風呂である理由を持たなくなってきたわけです。
トルコ風呂がトルコ風呂としての魅力を失いかけていた中で、暗雲がたちこめます。
東京オリンピックを控えた1963年頃から、トルコ風呂に対して取り締まりが強くなっていきました。
さらに、1966年には風俗営業等取締法の一部を改正する法律が提出され、トルコ風呂の新設にブレーキがかかることになりました。このような情勢の中、トルコ風呂の勢いはこのまま失速していくのではないか、と思われた矢先、とあるトルコ風呂店で衝撃的な新サービスが誕生しました。
そのサービスこそ、泡踊りであります。
マットプレイの原型「泡踊り」の誕生:1969年
1969年にトルコ風呂で誕生した泡踊りは、何を隠そう、現在のソープランドの代表的サービスであるマットプレイの原型となったサービスです。
泡踊りは、神奈川県川崎市堀之内のトルコ風呂店「川崎城」に在籍していた嬢が考案開発したと言われています。
当時の泡踊りは石鹸の泡のみを使用するものであり、エアマットの上で嬢が様々なテクニックを用いて男性客の体を洗いました。
この泡踊りは衝撃的な新しさから、瞬く間に全国のトルコ風呂店に広がっていきました。
特に、本家本元の川崎堀之内の泡踊りは、「川崎流」と呼ばれ、多くのトルコ風呂ファンを魅了しました。
というのも、川崎堀之内の泡踊りは、嬢が体をどの方向に向けても、または、体をどんな位置に置いても、男性客の肌に密着し続けるという卓越した技術があったからで、のちに川崎堀之内のトルコ風呂は、テクニックの堀之内と評されるまでになりました。
泡踊りが誕生した頃のトルコ風呂の店舗数は全国に814店、在籍した泡姫は13,645人にのぼる、という記録があります。
泡踊りという衝撃的な新サービスによって、トルコ風呂の価値は高まり、トルコ風呂は風俗の王様として唯一無二の風俗業種としての道を歩み始め、全国の店舗数は着実に増えていきました。
トルコ風呂店は新規参入組もたくさんいた!
ここまでの話だと、トルコ風呂(現在のソープランド)があるエリアの全ては、かつて遊郭、もしくは赤線・青線の名残りがあった場所だと思うでしょう。
しかしながら、全てが全てそういう歴史を歩んできたわけではありません。
トルコ風呂全盛期は、多くのトルコ風呂が新規参入してきて、いたるところにお店が乱立していました。
それらの店舗の一部には、かつて遊郭があったわけでもなく、赤線・青線エリアだったわけでもない地域にお店を出したトルコ風呂店が少なからずあります。
つまり、遊郭や赤線・青線に影響を受けていないエリアであっても、トルコ風呂繁栄期に風俗エリアとして仲間入りした場所があるんですね。
例えば、日本三大ソープ街として有名な、滋賀県の雄琴エリア。
現在、ソープ店が立ち並ぶ雄琴エリアは、かつて、遊郭もなければ、赤線・青線で売春が横行していたということもありませんでした。
かつての雄琴エリアには、一面に広がる田んぼしかなかったのです。
そんな田舎町に一人の男性がトルコ風呂店を開業したのであります。
そのトルコ風呂店の開店をきっかけにあれよあれよという間に、雄琴エリアは日本でも有名なソープエリアへと発展したのであります。
雄琴エリアのように、トルコ風呂ブームに乗っかって、突如として有名風俗エリアとなった例も少なからずあります。
ソープランドの誕生
トルコ風呂は風俗店として確固たる地位を築くまでになりましたが、思わぬところで転機が訪れます。
性的なサービスを提供する風俗店に「トルコ」という国名が使われていることに対して、日本にいるトルコ人の多くがずっと不満を募らせており、その不満が一気に爆発したのです。
1984年に東京大学のトルコ人留学生(ヌスレット・サンジャクリ氏)が当時の厚生省(現在の厚生労働省)に名称変更を訴え出ました。
このトルコ風呂改名運動を強力に手助けしたのは、実は、女性初の都知事となった小池百合子さんです。
この問題が、当時、テレビ番組でアシスタントキャスターを務めていた小池さんの目に留まり、小池さんが積極的に動いて「トルコ風呂」の名称変更に尽力しました。
同時に、ヌスレット・サンジャクリ氏の厚生省への陳情がテレビなどのメディアに取り上げられたこともあって、ついに「東京都特殊浴場協会」はトルコ風呂の名称変更を決断しました。
東京都特殊浴場協会は、トルコ風呂の新名称を公募した後、当時の赤坂プリンスホテルにて新名称発表記者会見を開き、トルコ風呂を「ソープランド」に名称を変更することを発表したのです。
そして、1984年にトルコ風呂はソープランドとなって、新しい道を歩み始めたのであります。
現在のソープランド業界
現在のソープランドは、簡単に言えば、多角化していることが大きな特徴と言えるでしょう。
例えば、今までソープランドは高級志向が強かったのが、近年では大衆店や格安店、激安店のソープランドが増え、ソープランドを利用できるユーザーは大いに増えました。
自分で予算を決めて、その予算の範囲内でソープ店を利用することがたやすくできるようになったのです。
また、近年のソープランドは、コスプレ・熟女・JK・早朝ソープ・マットなしで低価格など、様々な独自コンセプトを打ち出すお店も増えており、ソープユーザーの選択肢は確実に増えました。
ただし、残念ながらソープランド店は、これ以上店舗数が増えていくことはなく、むしろ店舗数が減っていくのみです。
というのも、ソープ店は法律によって、これ以上新規にお店をオープンすることができないからです。
もちろん、今ソープ店が存在するエリア以外の場所で、お店を新規開店することもできません。
ならば、我々ソープユーザーが今のソープランド文化を守るためにすべきことは、現存するソープランド店を利用し続けること、だと言えるでしょうね。
ソープランドの未来は、俺たちソープファンが守る!
トルコ風呂は、当時で言えば、非常に画期的な風俗業種でありました。
そのトルコ風呂の新しさは、多くの男性を魅了しました。
一方で、現在のソープランドは、デリヘルなどの比較的歴史が浅い風俗業種に多くの風俗客を取られ、さらに年々強まっていく規制によって、ソープランドの規模は縮小傾向にあります。
そして、ソープランドはサービスで本番行為ができるゆえに、これ以上の画期的なサービスや斬新なサービスはそう期待できないのかもしれません。
しかしながら、風俗にて本番ができる業種はソープランド以外にはあり得ないわけで、ソープファンからすれば、ソープランドに取って代わる風俗業種はないのであります。
唯一無二の風俗業種であり、風俗の王様として君臨するソープランドは、店舗数がどんどん減ってきているとはいえ、決して消滅させてはいけない風俗文化なのです。
だから、私たちソープファンは、これからもソープ店を利用し続ける!このファンの気持ちこそが、ソープランドの未来を作り続けます。
さぁ、みんなでソープランドに行こう!