ソープランドの歴史!遊郭の歴史を解説
ソープ店に行くとき昔の遊郭に思いをはせることもあります。
長い歴史を持つ吉原であればなおさらです。
今回は吉原などの遊郭の基礎知識や歴史について、現代の金額に換算した料金の説明も交えながら説明します。
まずおさえたい!遊郭の基礎知識
そもそも遊郭とは?
遊郭とは、国や自治体から営業を公に認められた遊女屋を複数集めたエリアのことです。
遊女屋は妓楼(ぎろう)と呼ばれていました。
妓楼では女性と性行為をすることができます。
風紀を良くするために作られる
公の営業許可を得ずに売春を行っていた私娼を1ヶ所に集め、管理することを目的に作られたのが遊郭です。
治安を守り風紀の乱れをなくすことを目的としています。
出入口が門のみとなっている吉原のように、一般市民が利用するエリアと隔離されているケースが多いです。
1585年に豊臣秀吉が、現在の大阪道頓堀に作ったのが日本初の遊郭となっています。
当時を知るために必要な吉原遊郭の基礎知識
妓楼のランク
吉原の遊郭に存在する妓楼の中にも、以下のようなランクがありました。
・大見世:現代では総額80,000円以上の超高級ソープ相当
・中見世:中級店から総額60,000円前後の比較的安く遊べる高級ソープ相当
・小見世:格安店相当
これらは吉原の一般的な妓楼となっています。
メインから外れた場所にある河岸見世は、容姿が悪い、30代以上と年齢が高い、病気にかかっているなど、一般的な妓楼で働けない女性が集まっているお店です。
遊女とは?
遊女とは遊郭や宿場などで男性に性的サービスを提供する女性従業員のことです。
貧しい農家や武家に生まれて身売りをされた女性が多くいました。
吉原では基本的に15歳頃から男性客への対応をはじめ、27歳頃に遊女としての第一線を退くことが多かったようです。
遊女のランクは、上から
・花魁や大夫
・格子女郎
・局
・端女郎
・切見世女郎
最上位の花魁は容姿端麗なだけでなく、頭が良く、古典芸能・書道・琴・三味線などの芸能に精通していました。
雑用をする6~12歳くらいで客の禿(かむろ)、遊女の見習い的な立ち位置の振袖新造もいます。
禿は客を取ることはなく、振袖新造は客をとる人とそうでない人がいました。
妓楼の内装
2階建ての妓楼が多く、1階は台所や女性のトイレ、2階は性行為を行う部屋や宴会を行う座敷などがあります。
宴会などを行う引付座敷は20畳ほどの広さがありました。
男性を迎える座敷は8畳前後で、現在のソープ店のように浴室はないものの、タンスや鏡台などが置かれていました。
浅草などで臨時営業することも
吉原は公に認められた遊郭のため、火事で全焼するなど営業ができないときは、妓楼が再建されるまでは浅草・深川などの家屋を借りて臨時営業をしていました。
期間は300日など制限があったようです。
江戸時代には20回以上の火災や地震などの災害に見舞われます。
吉原の火災は自身の厳しい現状に耐えかねた遊女によるものが多くありました。
吉原遊郭のシステム
基本的には宴会後に性行為
大見世・中見世・小見世では基本的に、宴会などを行った後に性行為を行うことが多いです。
初回は座敷で女将や従業員も同席のもと遊女と対面し、盃を酌み交わし、宴席を設けることもありました。
また雑用をする禿など妓楼の従業員に小金を支払う、チップのようなシステムのあるお店も多くあります。
大見世などでは時間の決まりはない
詳細は店舗によって異なりますが、最短で〇分、最長で〇時間など、遊女と過ごす時間についての決まりはありません。
営業終了となる午前2時から午前6時まで遊女と寝床で一緒に過ごすことができ、数日間遊女を独り占めにすることもできました。
遊女と過ごす時間に比例して、金額も高くなります。
そんな大見世などの妓楼に対して、河岸見世はちょんの間のような側面が強く、30分など短い時間の中で性行為のみを行います。
料金は30分3,200円程度です。
引手茶屋を経由する方法も
直接お店に行く方法と、妓楼を利用する男性を手引きしている引手茶屋を経由する方法があります。
妓楼を直接利用する場合は、気に入った遊女を選んで遊ぶことになり、システムとしては現代と大きく変わりありません。
ただ遊郭では宴会などを行うことも多く、直接利用すると加減が分からず、必要以上の出費が発生することもありました。
情報媒体が存在
江戸時代には吉原細見(よしわらさいけん)という、吉原遊郭のガイドブックのような書物がありました。
内容は妓楼にいる遊女の人数、格付け、それぞれの遊女と遊ぶときの金額といった情報が掲載されています。
料金については宴席などの費用は含まれておらず、掲載されている金額と総額料金に差が出ることも多いです。
1730年から約160年の間刊行されていました。
誕生から戦後まで!吉原遊郭の歴史
1617年に誕生
1617年に江戸の日本橋人形町付近に吉原遊郭が作られます。
この頃は吉原ではなく葭原と書かれていました。
1656年に現在の地域にうつり、新吉原遊郭となります。
男性客の中心は身分の高い武士でした。
遊女の数は2,000人台となっています。
公に認められていた遊郭は吉原以外に、京都の島原、大阪の新町、長崎の丸山と限られていました。
江戸時代後期に全盛を迎える
女性と遊べる場所であると同時に、花魁のように特別な美女と過ごせる華やかな場所として栄えます。
男性の社交場としての意味合いが強く、大衆に広がりましたが、男性客の中には富裕層が多かったようです。
江戸時代後期の全盛期には、200以上の見世が存在し、遊女は7,000人前後いました。
明治以降は貸座敷に名称を変える
明治になると、吉原では遊郭ではなく貸座敷と名称を変えます。
この頃に誕生した遊郭も多く、福原遊郭、金津園の前身となった金津遊郭などがありました。
大正から昭和初期までは1時間8,000円前後、4時間24,000円前後となっています。
18〜翌8時まで遊ぶ場合は全夜遊びと呼ばれ、料金は48,000円前後です。
吉原遊郭は空襲によってほぼ全焼となりましたが、赤線として営業をしています。
その後はトルコ風呂に業態を変えるお店が増え、現在のソープ街となります。
吉原以外にも存在!各地の遊郭
長崎:丸山
1642年に開かれた遊郭で、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大花街と呼ばれました。
遊女が美人揃いということでも知られています。
主な客は出島に駐留したオランダ人で、海外の男性を相手に栄えました。
男性客の中には遊女にラクダをプレゼントした人もいたそうです。
沖縄:辻
1672年の琉球王朝時代から続く遊郭であり、琉球の言葉で高い所や頂を意味する、ちーじからとられた地名です。
琉球には、辻、渡地、仲島と3ヶ所に遊郭がありましたが、辻はその中でも一番規模が大きく、女性の質が高い遊郭でした。
遊郭で働く女性は尾類(じゅり)、楼主は抱母(あんまー)と呼ばれ、遊女出身の女性の割合が高く、女性のみの自治都市という側面が強いことが特徴です。
1944年の空襲で遊郭は姿を消し、戦後は辻という地名を残した風俗街となっています。
大阪:飛田
大正時代の1916年に誕生した後発の遊郭です。
300年以上の歴史を持つ難波遊郭が大火によって廃止され、代替地として承認されたのが飛田遊郭となります。
ダブルベッドを導入する、妓楼にダンスホールやカフェーを設置するなど、当時としては珍しい取り組みをしていることが特徴です。
現在は飛田新地となっています。
現代との差は何?吉原遊郭を深掘り
指名方法
現代:写真を見て選ぶ
吉原遊郭:実物を見て選択
格子の中の座敷に座る女性の中から、好みの遊女を選択するシステムです。
座敷に並ぶ遊女は、三味線を弾く、読書をする、カルタをする、手相を見るなど自由に過ごしていました。
女性の位置はランクによって決められており、正面の上座のように目立つ場所には、ナンバーワンの遊女が座ることが多かったようです。
指名が重なったときの対応
現代:後に指名した男性を断る
吉原遊郭:全ての男性を受け入れる
遊郭では同じタイミングで1人の遊女を数人の客が選んだ場合、後の男性に断りを入れるのではなく、全ての客を受け入れていました。
時間が重なった場合は、複数の客を入れて一緒に遊ぶことや、遊女に選ばれなかった男性は1人で待つことも。
容姿端麗な男性、自分や妓楼に対して貢献度の高い客が優先されることが多かったようです。
男性客が多く座敷が足りない場合は、同じ部屋で複数のペアが過ごすこともありました。
最後の時間帯の客とは翌朝まで寝床で過ごせるので、好感を持った男性を最後にする遊女が多くいました。
2回目以降
現代:好きな女性を指名
吉原遊郭:基本的に1回目の女性以外とは遊べない
江戸時代は妓楼の中に多くの人がおり、茶屋を介すことも多いため、吉原遊郭の中で「AさんはBさんと遊んだ」という情報が広がります。
基本的に他の遊女を指名することは禁じられており、破ったときは男性に対して厳罰が与えられたこともあるようです。
再度妓楼に行ったときは、以前遊んだ遊女と過ごすのを前提に案内されました。
性行為のときの女性の服装
現代:基本的に全裸
吉原遊郭:全裸にならない
吉原などの遊郭では、基本的に遊女が全裸になることはほとんどありませんでした。
着物がはだけた状態になるものの、腰や肩などに羽織っている状態になります。
遊女が男性客に対して、特別な存在であることを伝え、熱を上げさせるために全裸になることはありました。
冷暖房がない江戸時代は、全裸になる可能性があるのは夏場で、冬など他の季節に全裸になることはほとんどありません。